戦略論の変遷


戦略論の変遷(History of Strategy)
「戦略」の概念を世界で最初に用いたのは孫子の兵法であるとされている。戦略という言葉は使われていないものの、国家戦略から戦術論など、レベルに応じた思考法を示しており、その内容は現在でも普遍的に適用される事が多い。「戦略」という概念を、国家の政治目的と捉えて組織論、意思決定論を展開したのがクラウゼヴィッツの戦争論である。こちらも戦略論の古典として、現代においても多方面で活用されている。一方で、戦争を定量的、統計的、数学的に始めて扱ったのが第一次世界大戦時に発表されたランチェスターの法則である。戦略は基本的には戦争論の中の分野として発展してきている。
第二次世界大戦の終結と共に、大規模な軍事拡大時代は終わりを告げる。同時に、それまで軍需産業の発展に伴って著しい成長を遂げてきたアメリカの経済が転換期を迎える。企業規模も拡大し、環境の変化を予測した上で、製品の上市、組織の改変、事業の多角化などを計画的に推進する必要に迫られていた。そうした中、本来軍事用語であった「戦略」という用語に「経営戦略」という新たな概念が付与されることになった。初めて「経営戦略」という言葉を使ったのは、ゲーム理論を発表したノイマンとモルゲンシュテルンだと言われている。
戦時経済を経て、1950年代から1960代にかけて大組織へと成長した企業が採用した経営戦略は多角化だった。1962年にチャンドラーが出現すると、彼の有名な命題「組織は戦略に従う」に影響を受けた多くの大企業が、組織を職能別組織から事業部制組織へと転換している。
1960年代半ば、アメリカの大企業では将来に対して一定の見通しを持つ事が出来る長期経営計画の策定が求められていた。アンゾフの市場製品分析/成長マトリクスは、市場と製品を分類し、それぞれの市場・製品でどのような戦略を立てるべきかを説いた。
1970年代に入ると、製品と事業戦略に関する投資の当否を明らかにするプロダクト・ポートフォリオ・マネジメント、製品ライフサイクルなどの概念がボストン・コンサルティンググループやマッキンゼーといったコンサルティング会社によって次々と開発され、投資に明快な解をもたらす経営戦略論として一大ブームを巻き起こす。また、以降経営コンサルティング会社が経済界に大きな影響をもたらすようになり、経営戦略論が企業内に広く根付き始める。
特に、1970年代のアメリカは、景気停滞とインフレに陥り、多角化し肥大化した事業体をどのようにマネジメントしていけばいいか、というのが大企業における共通の課題だった為、どの事業体にどれだけの投資をすれば良いのか、明快な解を導く事が出来るプロダクト・ポートフォリオ・マネジメントは企業にとっても最適なものだった。
1980年代に入ると、ポーターによって「競争の戦略」が提唱された。5つの競争要因から企業における競争のあり方を紐解いたファイブフォース分析や、3つの基本戦略、バリューチェーンといった概念は、現実の企業経営への応用が可能である事から一気に企業に広まっていく。
同じ頃、日本企業はアメリカの大企業の地位を脅かす大きな存在となっていた。飛躍的に競争力を高めた日本企業に対し、アメリカの鉄鋼・電機・自動車・半導体などの産業は急速に衰退し、同時にアメリカは不況の時代を迎える。そんな中でアメリカは日本的経営の積極的な研究を行い、製造工程における生産性重視の考え方、組織内部からの戦略立案方式、ジャストインタイムなどの考え方などなど、その長所をアメリカ版にアレンジした形で取り込んでいくようになる。経営戦略の面でも、日本企業の戦略行動パターンを研究したコア・コンピタンスや、日本発のナレッジマネジメントと言った組織内の知識をいかに活用して競争優位を作り出していくか、という議論が活発となってくる。
従来の、例えばSWOT分析やポーターのファイブフォース分析といったポジショニング・アプローチでは、魅力的な産業の発見と業界内でのポジショニングの確立に留意し、戦略実行に必要な資源や能力は戦略策定後に、必要に応じて外部から調達するという考えに立っている。一方、資源依存型経営戦略理論においては、あくまで自社の持つ経営資源(ヒト、モノ、カネ、知識、情報、ノウハウ)をベースに戦略を形成する。リソース・ベースド・ビューやコア・コンピタンス、SECIモデル、学習する組織など、近年になって発表される概念は自社内の有形・無形の資産を有効活用しようとする傾向が強いと言える。
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