なぜエンジニアの話は通じないのか


最近、企業の幹部の方から「社員間のコミュニケーションが上手く行っていない」、「部門間の意思疎通ができていない」という話をよく聞く。特に、エンジニアのコミュニケーション能力には問題があるとの指摘が多い。確かに、エンジニアは口下手で話をするときも専門用語が多くて分かりにくいというのが、昔からの「定説」であった。その傾向は、この数年でますます進んでいるようだ。
以前、ある中堅ソフトハウスの営業担当課長と、社員研修について話していたときのことである。その会社では、毎年十数人の大卒新人をシステム開発要員やSE(セールス・エンジニア)として採用している。若手のSEの仕事ぶりに話題が及ぶと、課長の顔が一瞬にして曇った。
「先日、お得意様のA社との商談に、ある若手のSEを連れて行ったときのことだ...」課長は、ため息まじりに話を続けた。
「うちが提案しているシステムについて、先方の担当者から、技術的にちょっと難しい要求が出てきた。ちょうど良い機会だと思って、私の代わりにそのSEに答えさせてみた。」
「で、彼はなんて答えたと思う? “やろうと思えばできますけど、今やる意味なんてないですよ。そんなことは、運用が始まってから考えれば良いでしょう”と言い放った。」
「それを聞いたお客さんは、その瞬間凍りついたようだった。今までの営業努力が無駄になったかと思ったよ。」
「その後、我々が必死にリカバーして、ようやくA社から受注することができた。もし失注していたら、3階(SE部のあるフロア)の部長に責任をとってもらうつもりだったよ。」
「3階も、SEを採用するときはコミュニケーション能力をしっかり見極めて欲しいものだ。」課長は、もう一度ため息をついた。
チームで仕事をしていると、これに似たような経験をすることがあると思う。しかし、「それはよくある話」で済ませてしまうと本質を見失うことになる。後日、この会社のSE部門のチームリーダーと打合せをする機会があり、A社との商談について話を聞いてみた。
「ああ、あの件ですか。受注したシステムは、我々にとって久々の自信作になりました。」彼はうれしそうに話し始めた。
「いつもは、営業部隊が勝手にお客さんの要求を聞き入れて、我々に無茶な納期で作れと言ってくることが多いのです。しかも、お客さんのニーズ(必要なこと)とウォンツ(希望していること)をごっちゃにしているものですから、下手をすると中途半端なものになってしまう。」
「しかし、今回はうちの若手のエースのN君が、A社との仕様決めの打合せでナイスプレーをしてくれました。」
「実は、A社の担当の方が、データ処理の件数を1桁多く設定してくれと要求を出してきたのです。」
「そのときN君は、“もちろん、技術的には可能です。しかし、現時点での見積処理件数を見る限り十分過ぎるほど余裕があります。大幅にコストをかけても、それに見合う効果は望めません。ですから、今それをやる意味はあまり無いと思います”と答えました。そして、“システムが立ち上がってから、運用状況をにらんでサーバを増強しましょう”と提案したのです。」
「そうしたら、先方の担当者は一瞬“ああ、そうか!”という顔をしてとても感心したそうです。おかげで受注もすんなり決まりました。」
「これからは4階(営業部のあるフロア)にも強く言って、重要な商談には必ず営業とSEがペアになって臨むような仕組みを提案したいと思います。」
この話からコミュニケーションの難しさを語り、その大切さを再認識してみせることは簡単である。しかし、ここではこの商談での出来事をめぐって、もう少し踏み込んで考えてみたい。
営業課長は、SEのN君が顧客の要求を無視して怒らせたと思っている。
SEのリーダーは、N君が顧客に正しい提案をして感心されたと思っている。
このギャップについては、「それは営業とSEとで立場が違うからだ」というのが一般的な見方だろう。では、立場とは何だろう。営業は受注を得るために顧客の要求を何でも考えなしに受け入れてしまう、SEは自分の技術的な思考だけに頼って顧客の要求を聞き入れようとしない...しかし、それは立場によるものなのだろうか。
そうではない。営業もSEも、顧客が満足してくれるシステム提供することが仕事の全てである。つまり営業、SEともにそれぞれが仕事のプロフェッショナルであり、立場とは無関係なのである。
実は、こうしたギャップを生み出している背景には、プロであるがゆえに生じる「高コンテクスト文化」の存在がある。コンテクスト(context)とは辞書を引くと「文脈」と訳されているが、広い意味では、共通の知識・体験・価値観・ロジック・嗜好性という含意もある。SE部に限らずエンジニアのいる職場では、仕事上必要となる専門知識や技術に対する認識が高度に共有されている場合が多い。エンジニアが職場で口数が少ないのは、決して仕事の難易度が低いからではなく、仕事に関する知識(問題点や解決手段)をお互いが十分に共有しているからである。もしもそうでなければ、非常に多くの言葉を尽くさなければ仕事は進まなくなってしまう。エンジニアの職場は典型的な「高コンテクスト文化」である。
では、営業部のように外部との接触が多い職場は、その逆の「低コンテクスト文化」であろうか。ところが、そうとは限らない。営業マンの仕事は、プレゼンをしたり交渉をしたりと多くの言葉を尽くすが、部外者には理解できない用語や話し方をする場合もよくある。「高コンテクスト文化」は、言葉数の多い少ないによってではなく、仲間内のあいだで知識の共有度合いが高くなることによって生まれるのである。
上記の商談における営業課長とSEのリーダーとの認識の違いは、お互いに「高コンテクスト文化」に浸っているために生じたコミュニケーションの失敗である。もちろん、実際に商談でどのようなやり取りがあったのか、何が決め手になって受注に至ったのかは、顧客であるA社の担当者に話を聞いてみなければ分からない。しかもN君が、本当にSEのリーダーが言ったように、「きちんと話した」のかどうかも確かめようがない。しかし、両者とも自分たちの職場が「高コンテクスト」であることを十分認識していなかったことは、大きな問題である。それぞれが、自分の職場の話し方や考え方を無意識に標準(スタンダード)だと思い込んでしまったのだ。そのことが、正しいコミュニケーションを妨げていたのである。
多くの研修会社が、主に新人や若手社員向けに「コミュニケーション研修」を行っている。そうした研修で「分かりやすい話し方」や「傾聴のスキル」を学び、「相手の立場に立って考える」トレーニングを積むことで、コミュニケーション能力を身に付けることは可能である。しかし、一度身に付けた能力も「高コンテクスト文化」の中で過ごすうちに徐々に低下して行くことになる。つまり、前出の営業とSEのすれ違いは、コミュニケーション能力を使う「機会の少なさ」によって生じたものである。多少乱暴な例えだが、英会話スクールで十分に英語を学んでも、日本の国内で生活し続ける限り英会話能力は低下して行くのと同じことである。
さて、1年程後に、このソフトハウスを訪ねる機会があった。4階にあった営業部は3階に移っていた。3階でエレベータを降りると、広いフロアにずらりと並んだ営業部とSE部の机を見渡すことができた。1年ぶりで会った営業課長に、SE部と隣同士になってコミュニケーションの上で何か変わったかどうか聞いてみた。
「何も変わってないよ。相変わらずSEの連中は分からず屋だしね。会議ではむしろ以前よりもやりあうことが多くなった。」そして、SE部の席の方をちらっと見てからこう付け加えた。
「でも、年中言い合いをしているうちに、私も、私の部下も少しは“SE語”が分かるようになってきた。SEの連中も、私が話している最中に “それは営業語ですね”なんてからかったりしてくるけどね。」
「時々嫌になることもあるけれど、お互い徹底的に話し合った方が良い知恵が出てくることは確かなようだ。実は、これからその知恵出しの時間なんだ。」課長はそう言い終えると、SE部との打合せのために会議室に入っていった。
「コミュニケーション能力」というスキルは、正しいトレーニングによって身に付けることができる。しかし、その能力を維持し生かして行くためには、「高コンテクスト文化」に対して常に揺さぶりをかけ続けるための「仕組み」が必要なのである。
参考文献:
『文化を超えて』エドワード・ホール、安西徹雄訳、研究社出版
平野 茂実
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