未来学の進化論(I)


今回と次回のコラムでは、「21世紀の経営学の必須科目」になると私が確信する“未来学”を取り上げ、その変遷と今後の展望について考察してみたいと思います。
今から二千年以上も前の神代の時代から、人間は“未来学=未来を知る術”に関して強い興味を抱いてきました。中でも為政者たちは未来を知ることにとりわけ熱心でした。例えば紀元前8世紀の古代ギリシャでは、ピュティアと呼ばれる巫女がアポロンの神託として様々な予言を行っており、かのアレキサンダー大王も決断に迷うたびにピュティアに予言を依頼したそうです。ピュティアはカステリアの泉で身を清め、月桂樹の葉を燃やした煙で穢れを払ったのちに予言を行いました。日本でも、弥生時代に邪馬台国の女王として君臨した卑弥呼(ひみこ)は、みずから巫女として神の言葉を聞くことで国を統治したと言われています。
時は下って19世紀後半、イギリスの作家H.G.ウェルズが「タイムマシン」という小説の中で、過去や未来へ自由に旅行できる奇想天外な乗物を登場させたことにより、未来は神の託宣(=人間の叡智が及ばないもの)から「人間のイマジネーションの対象」へと大きく変貌しました。タイムマシンほど私たちの空想を喚起し、冒険心をくすぐるものはありません。これをハリウッドが放っておくはずがなく、タイムマシンをテーマにした映画が今日までに数多く製作されています。“タイムマシンもの”の中では、1985年に公開され大ヒットした、ロバート・ゼメキス監督、マイケル・J・フォックス主演の“バックトゥザフューチャー”が私のお気に入りの一つです。シリーズ第2作(Back to the Future Part2、1989年)には、未来を知ったことで大金持ちになるエピソードが出てきます。マイケル扮する主人公マーティ・マクフライは、未来からやってきたドク・ブラウンと知り合い、彼が発明したデロリアン(=タイムマシン)に乗って2015年の世界にやって来ます。そこでマーティが手にしたスポーツ年鑑が、マーティの父親の宿敵ビフ・タネンの手に渡ってしまうことから歴史を塗り替える大事件が勃発します。ビフはすぐさまデロリアンで1955年に戻り、当時高校生の自分自身に2015年製のスポーツ年鑑を手渡します。未来のあらゆるスポーツの優勝チームやMVPが載っている年鑑を手に入れた1955年のビフは、スポーツ賭博に手を染めて巨万の富を築くことになります(もちろん勧善懲悪がモットーのハリウッド映画なので、最後は主人公マーティが1955年に戻ってスポーツ年鑑をビフから取り戻し、ビフの野望を打ち砕いて大団円で終わりますが)。そういえば、タイムマシンものでは日本も決してハリウッドに負けていません。2112年9月3日に東京の松芝工場で製造されたとされるネコ型ロボットドラエモンをはじめ、タイムマシンに乗って時空を自在に往来するアニメ主人公は山ほどあります。
さて、ウェルズの考案したタイムマシンは残念ながら未だに実現していませんが、ウェルズが未来を“科学の対象”に変えた結果、未来学(futurology.)というユニークな学問分野が誕生しました。ウェルズが提唱した未来観は、それまでの(人知が及ばない)神託とは全く異なります。
「多くの人々は未来のことは知りようがないとの固定観念に囚われている。しかし実は、過去を知ることと未来を創造することは同じことなのだ。人間が未来に関心を持っている限り、未来を知る手がかりは常に人間のなかに隠されている」と述べ、科学的に未来を予測することは可能であると考えました。ここに未来学が幕開けします。やがて19世紀末の1893年には、コロンブスのアメリカ大陸発見後400年を記念して、シカゴで世界博覧会が開催され、当時のアメリカの頭脳100人を結集して、100年後(つまり1993年)の社会を予測するという未来学の歴史に残る一大イベントが催されました。その結果いったいどのような予測がなされたかと言うと、
「人類は自由に空を飛べるようになっている」
「各家庭にはテレフォーテ(現在のテレビと電話を融合したようなもの)が備わり、家に居ながらにして世界のどことでも話ができ、世界中の娯楽イベントが楽しめる」
「アメリカ人の平均寿命が150歳にまで伸びている」
「アメリカは北米、中南米をすべて支配下に治め、世界の超大国になっている」
「男女平等の社会が実現している」
「教育があまねく行き届き、犯罪も文盲も一掃されている」
「税金が不要になるほど社会が豊かになり経済が発展している」
「世界中が自由貿易で一体化し、戦争はなくなっている」
等なかなか興味深いものがあります。機械や電気電子など工学に関連した予測が的中しているのに対して、医学や政治経済に関わる予測が外れているのが分かります(この点を深掘りすると色々と面白そうですが、ここでは立ち入りません)。
シカゴ博覧会のわずか8年後の1901年(明治34年)、日本でも(当時は一般紙だった)報知新聞が正月特集として「20世紀の予言」を企画しました。無線電話、写真の電送、エアコン、7日間世界一周など、予言がみごと的中し20世紀中に実現したものが数多くあるのには驚かされます。
その後、第二次世界大戦により日本の技術と産業は一旦大きく疲弊しますが、戦後の目覚しい復興を経て高度成長を遂げた1960年代後半、日本の未来学は絶頂期を迎えます。1968年には日本未来学会が設立され、翌1969年には朝日新聞社が“2001年の日本”を刊行、日本未来学会創設者の加藤秀俊が中心となって、21世紀初頭の日本の未来図を描きました。さらに1970年には、日本未来学会主催で世界の未来学研究者300人を集めた国際会議が京都で開かれています。
しかしこの頃を境にして、日本の未来学は次第に下火になっていきます。その理由は皮肉にも“2001年の日本”がバラ色の未来を描きすぎたことと関連しています。“2001年の日本”は、「悪性がんの完全治療薬」、「人工臓器の移植と広範な利用」、「原子力施設による海水淡水化」、「垂直離着陸の旅客ロケット」などが20世紀末までに実現されているとし、さらには「地震の完全予知」、「男女の産み分け薬品」、「核融合の一般利用」、「光子ロケット」、「天候の性制御」などもいずれ可能になると予測しました。しかし現実には21世紀になった今も現実化していないものが多く、研究段階にすら至っていないものもあります。
“2001年の日本”が出版された後現実の日本は、高度成長の副作用である公害や環境汚染、エネルギー危機などに次々と直面し、成長一辺倒から節度ある成長へと大幅な路線変更を余儀なくされました。核融合による化石燃料の代替やガンの撲滅など、科学に寄せられた当初の過大な期待は薄れ、科学万能主義は次第に色褪せます。そして「科学は思ったほど頼りにならない」ことが「未来学は当たらない」とほぼ同義となり、未来学への信頼感は大きく揺らいでいきました。
他方アメリカの未来学は、世界大戦後新たな進化を遂げていきます。ソ連との冷戦時代に直面したアメリカは、相手の出方に応じて適切な手を打つことの重要性を痛感し、シナリオプランニングと呼ばれる未来学の手法を生み出します。シナリオプランニングとは、最善の成り行きと最悪の成り行き、漸進的展開と革命的展開というように、未来に関して複数の異なる筋書き(シナリオ)を想定します。そして、どのシナリオが起きたとしたとしても適切に対処できるよう、事前に組織的なシミュレーションを行うことを重視します。つまりそれ以前の未来学のように唯一の未来を描こうとするのではなく、起こりえる複数の未来を全て洗い出し、そのいずれのケースになったとしても対応できるような体制を整えることを目的に置いたのです。この発想の転換により、未来学は危機管理のための極めて実践的な方法論になりました。やがてシナリオプランニングは、軍事面だけでなくビジネスにおいても大きな成果を挙げるようになります。その先駆けとなったのはスタンフォード大学の付属研究機関であるスタンフォード・リサーチ・インスティチュート(SRI)で、シナリオプランニングの技法を企業経営に積極的に応用しました。なかでもSRIの未来学者ピーター・シュワルツは、シナリオプランニングのビジネスへの応用の先駆者で、1980年代後半に実際に起きたソ連の民主化を“起こりえるシナリオ”の一つとして予測し、石油会社のシェルが他のオイルメジャーを出し抜いて、ソ連で油田開発の権益を得る上で極めて重要なアドバイスを行いました。その後もシナリオプランニングはアメリカ企業において積極的に活用されており、様々な改良が加えられながら進化し今日に至っています。
ここまでの未来学の変遷を要約すれば、19世紀末のH.G.ウェルズの小説「タイムマシン」により幕開けした未来学は、「科学の直線的進歩を前提とした、バラ色かつ単一の未来像を予測するアプローチ」であり、第一世代の未来学と呼ぶことができるでしょう。これに対し戦後アメリカで誕生し今日に至っている未来学(=シナリオプランニング)は、「科学、社会、政治、経済など様々なファクターを勘案した、楽観と悲観が交錯する複数の未来像を予測するアプローチ」であり、第二世代の未来学と呼ぶことができます。こう来れば読者の皆さんは、「それじゃあ第三世代の未来学は一体どうなるの?」と思われることでしょう。これについては是非次回のコラムでお話させてください。(文中敬称略)
参考文献: 「未来ビジネスを読む」浜田和幸著、光文社
「シナリオ・プランニングの技法」ピーター・シュワルツ著、東洋経済
■関連用語
シナリオプランニング