ファーストペンギンの経済学


読者の皆さんはファーストペンギンという言葉を耳にされたことがあるでしょうか?群れの中で最初に水に飛び込むペンギンを指す言葉です。南極に暮らすペンギンたちが生きていくためには、時折水に飛び込んでは魚を獲る必要があります。ところが水の中には、シャチやトド、オットセイなどの肉食獣が大きな口を開けてペンギンたちを待ち構えています。魚は食べたい、でもシャチは怖いと逡巡しているペンギンたちの中で、「我に続け!」とばかりに真っ先に飛び込む勇者、それがファーストペンギンです。ファーストペンギンが先陣を切ることで他のペンギンたちも安心して次々水に飛び込み、全員無事に食べ物にありつけます。群れ全体のメリット(=生存と繁栄)の観点から見れば、確かにファーストペンギンの存在は不可欠です。しかしファーストペンギン本人の立場から言えば、事はそう単純ではありません。幸いにしてシャチやトドが水中にいなければ、ファーストペンギンは仲間から英雄として褒め称えられるでしょう。しかしもしファーストペンギンの読みが外れれば、一瞬にして命を失うかも知れないのです。いくら群れのためとは言え、なぜファーストペンギンは“死のダイビング”を決行するのでしょうか?他のペンギンたちが水中ギャングの影におびえて氷上でオタオタする中、ただ1人死を恐れず飛び込む行為は、生物の自己防衛本能を考えれば不思議で愚かにすら感じられます。
私たち人間が織りなす社会においても、リスクを取って先陣を切るファーストペンギンは天然記念物並みに希少な存在です。先が読めない不確実な時代にあって、ヘタに自分から何か仕掛けるより、他の誰かがやって成功するのを見とどけてから間髪入れずに後に続くのが賢い人間、ということなのかも知れません。「会社の中を見回してみれば、偉くなったのは、チャレンジらしいことなんか何もせずに大過なく過ごした奴ばかり」と言うサラリーマン恨み節は、夜の居酒屋で最も盛り上がる会話の一つです。プロの競輪選手が語っていたエピソードですが、一番手と二番手では空気抵抗の大きさが全く違うそうです。一番手は前に誰もいないので風圧をモロに受けるが、二番手はトップがウインドシールドの役目を果たしてくれるので格段に抵抗が少ない。ですから百戦錬磨の競輪選手は、最初はできるだけ一番手にならずに、後ろにぴたっと付いて風圧を避けながら二番手で走り、最後に一気に先頭に躍り出るという戦法をとるらしいのです。そういえば、かつて松下電器も二番手戦略を常套手段としていた時代があったことを思い出します。まだ松下幸之助氏が社長として陣頭指揮を取っていた頃ですが、幸之助氏が「うちには、東京の方に優秀なマーケティング部隊がいるから安心だ」という趣旨の発言をしたとされる逸話があります。東京の方の優秀なマーケティング部隊というのは、言わずと知れたソニーのことです。当時松下電器は、ソニーが先進的な新製品を市場に出して成功する度に類似したコンセプトの商品を作り、それを全国津々浦々のナショナルショップで一気に拡販するという手法で大きな成功を収めていました。先の発言はこうした松下とソニーの関係を揶揄したもので、実際に幸之助氏が語ったのか真偽のほどは定かではありませんが、二番手戦略の優位性を知り抜いていた松下に対する絶妙な風刺であることは間違いないでしょう。かくしてやはり人間社会においても、「ファーストペンギンは、カッコはいいけど割りが合わない役回り」、という悲しい結論になりそうな勢いです。
人間を含む全ての生物は、絶えず変化する不確実な環境に適応しながら今日まで生き延びてきています。不確実な状況においては、群れの誰かがチャレンジャーになって不確実な現実と格闘し、新たな活路を見出さなければなりません。もし全員が過度に自己防衛本能を働かせ、不確実性を避けて行動を起こさなければ、群れ全体が滅んでしまいます。このジレンマを乗り越えるために、生物は進化の過程で「不確実性を好む脳」を発達させてきたらしいことが最近の脳科学研究で明らかになってきています。中でも、2003年に英国ケンブリッジ大学の研究グループがサルを使って行った実験が有名です。詳細は参考文献に譲りますが、サルの前にコンピュータのモニター画面を置いて色々な図形を表示しながら、図形の種類によってジュースが出てくる確率を変えるという実験を行って、サルの脳が不確実性にどのように反応するかを調べたのです。その結果、サルは50%の不確実性があるとき(つまり、その図形が表示されたときに必ずジュースが出るのではなく、2回に1回の確率でしかジュースが出ないとき)に、長時間(=図形が画面に表示されてから、実際にジュースが与えられるまでの間)脳内にドーパミンが分泌されることが分かったのです。脳内にドーパミンが分泌されている時間というのは、脳が喜び(あるいは快感、興奮)を感じている時間です。不確実性が全くなくて、図形を表示した後に必ずジュースが出てくるケースでは、ドーパミンは図形が表示された瞬間だけ出てすぐに出なくなります。つまり確実な状況では、図形が見えた一瞬だけ脳は喜びを感じたわけです。ところが50%の不確実性がある場合には、脳は図形が見えてからジュースが出てくるまでずっと喜びを感じ続けていたということになります。この現象は実は人間にも当てはまります。宝くじを買うのが趣味の人は、宝くじを買ってから当選発表を待つ間が何よりも楽しいと言います。馬券を買う心理、福袋を買う心理など、人々がギャンブルに魅せられる理由がここにあります。
起業家と呼ばれる人たちがリスクを背負って新たな事業に挑むのも、ひょっとするとこの「不確実性を好む脳」の仕業なのかも知れません。しかしそうなると、「起業家はギャンブラーと大差なし」ということにもなりかねません。しかし、果たしてそうなのでしょうか?
1997年に創業してからわずか8年で時価総額1兆円に達した楽天。昨今はプロ野球球団を創設したりTV局との経営統合に動いたりと日々マスコミを賑わす存在ですが、楽天のベンチャースピリットはまさにその強烈なスピード感に体現されています。楽天が創業した1997年から2000年にかけてはインターネットモールが百花繚乱状態となった時期で、どこも団栗の背比べといった状況でした。そんな中、三木谷社長率いる楽天は「誰よりも早く走る」ことをモットーにeコマース戦争を見事に勝ち抜いて、ネットモールで圧倒的な地位を築きました。米国のアマゾン、イーベイ、ヤフーなどネットビジネスの勝者はいずれもその分野の先駆的な事業者で、競合他社よりも早く顧客ベースとブランドを築いてNo.1の地位を不動にしています。他の誰よりも早く走ること、それが今日のビジネス戦争に勝ち残る鍵であるとすれば、「ファーストペンギンの経済学」はこれまでとは様相が一変します。確かに今でも水の中では、シャチやトド、アザラシたちがファーストペンギンを今か今かと待ち構えているかも知れません。しかし、ファーストペンギンが誰よりも速く泳げば、肉食獣たちに追いつかれることなく、多くの魚を獲って無事氷上に戻ることが可能です。そしてむしろ危険なのは、二番手、三番手のペンギンということになるかも知れません。ファーストペンギンを逃したシャチはどうにも腹の虫が収まらず、何とかペンギンを捕まえたいと思うはずです。そんなところにドボンと飛び込んで来たセカンドペンギンこそ、シャチの格好の餌食になってしまうことは明らかでしょう。
参考文献:茂木健一郎著「脳と創造性」
高井 正美
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