セレンディピティマネジメントのすすめ


『セレンディピティ』(Serendipity)という、ちょっと洒落た響きを持つ言葉があります。「偶然の出来事から大切なこと、本質的なことを学びとること、あるいはその能力」を表す言葉です。“偶然を洞察する能力”であることから、『偶察力』と訳されることもあります。例えば、アルキメデスが浴槽から溢れるお湯を見て比重の概念を発見したり、ニュートンがりんごが木から落ちるのを目にして万有引力を発見したのは、まさにセレンディピティの典型例です。実際サイエンスの進歩においては、セレンディピティが関与するケースが数多く見られます。昨今産業界からも大いに注目されているバイオテクノロジーやナノテクビジネスでは、科学的発見が競争力の源泉となることが多いので、セレンディピティとは切っても切れない関係にあります。そこで本稿では、セレンディピティと経営(マネジメント)の関係について考えてみたいと思います。
セレンディピティというのは元々、『オトランドの城』(1765年)などを書いたゴシック小説の大家ホレス・ウォルポール(Horace Walpole)が童話『セレンディップの三王子』(Three Princes of Serendip)に書いた言葉に由来するといわれています。セレンディップは現在のスリランカのことで、1972年にイギリスから独立するまでセイロンと呼ばれていた島です。 物語のあらすじは、「セレンディップの王国時代に3人の聡明な王子が見聞を広めるために航海に出て、暴風雨や海賊など当初予想もしなかった困難に次々に直面しながらも、それらを見事に乗り切って無事帰国する」というアドベンチャーです。物語は以下のエピソードで始まります。
“旅に出た三人の王子は、ベーラム皇帝の国にたどり着き、ラクダに逃げられたラクダ引きと出会う。 ラクダを見なかったかと尋ねられ、三人はラクダの通った足跡しか見なかったのにもかかわらず、実際にラクダを見たと返答する。「そいつは片目のラクダだろ?」と第一の王子。「そのラクダは歯が一本抜けてるね?」と第二の王子。
「それに、片足を引きずっているよね?」と第三の王子。彼らはラクダを実際に見てはいないのに全て当たっていた。「道端の草が左側だけ食べられていたので、ラクダの右目は見えないとわかりました」、「草のかみ跡で、ラクダの歯が抜けていたのがわかりました。」、「片側の足を引きずったような跡がありました。」 ”
このエピソードが元になりセレンディピティとは、「ほんの僅かな痕跡を見逃さず、その背後に隠されている真実を読み説く聡明さ」を指すようになったと言われています。セレンディピティが起こるのは、その人が何かをずっと探し求めているからであって、元々そこにあったものが意識することによって特別の意味をもって見えてくる現象であるとも言えます。既に述べた通り、サイエンスの世界はセレンディピティの宝庫です。ノーベル賞受賞者のフレミングは、化膿菌の研究をしている最中にたまたま空中の青かびがシャーレに混入してしまいましたが、青かびが混じったコロニーには化膿菌が繁殖しなかったのを見てペニシリンを発見しました。ノーベル賞を創設したノーベル自身も、セレンディピティのおかげでダイナマイトを発明しています。ダイナマイトの元であるニトログリセリンは安定した薬品ではなく、爆薬として実用的なものではありませんでしたが、ある日ノーベルがニトログリセリンを珪藻土の上にこぼしたところ安定して使えることを発見したのです。日本人として初めてノーベル化学賞を受賞した白川英樹博士は、東京工業大の助手時代に大学院生が触媒の濃度を1000倍間違えたためにできた“失敗作”の薄膜を見てノーベル賞受賞につながる大発見のヒントを得ました。「レーザー脱離イオン化法」の研究で日本の企業内研究者として初めてノーベル賞を受賞した田中耕一氏は、「溶媒にグリセリンを混ぜて一回失敗、それを『もったいないから』と使って2回目の失敗。結果を早く見たいと思い、乾く前にレーザーを当てて、実は3回も失敗した」、「そのおかげでとんでもない大発見をした」と述べています。
こうしたセレンディピティによる科学的発見は、時として企業に莫大な利益をもたらします。前述のノーベルはダイナマイトの発明により巨万の富を得、そのお陰でノーベル基金を創設しました。最近では、ファイザー社のバイアグラとアップジョン社のロゲインが挙げられるでしょう。バイアグラもロゲイン(主成分ミノキシジル)も、いずれも本来心臓病の薬として開発されていたものですが、副作用としてたまたまバイアグラは男性の性機能障害の治療効果が認められ、ミノキシジルは発毛効果があることが分かりました。バイアグラ、ロゲイン(日本では大正製薬からリアップとして発売)の開発成功により、ファイザーとアップジョンには毎年莫大な利益がもたらされています。こうなってくると企業としては、セレンディピティと出来るだけうまく付き合って世紀の大発見、大発明にあやかりたいと考えるのが当然です。しかしここで、ほとんど哲学的とも言うべき大問題が生じてきます。すなわち、企業とは本来的に合目的的(ゴールオリエンティッド)に行動するものであるため、偶然に左右されるセレンディピティとは極めて相性が悪いということです。日本に限らず世界中の優れた企業の多くは、まず将来のビジョンを描き、次にビジョン実現のための戦略を立案し、必要な組織や仕組みを整えて戦略を実行します。最初にビジョンを作る理由は、そうしないと企業がどっちに向かっているのか分からず社員が戸惑うからです。ビジョンとはまさに向かうべきゴールであり、戦略とはゴールに向かう道筋です。ゴールが明確であればあるほど、社員にとってはやるべきことがクリアになります。「我が社のビジョンは世界一の優良企業になることだ」、と言われても社員にとっては必ずしもピンときませんが、「乗用車メーカーとして世界No.1になる」と言われれば具体的に何をすべきかが見えてきます。さらに商品開発においては、ゴールを明確に定義することがより重要になります。ただ単に「現代のライフスタイルに合ったファミリーカーを開発せよ」と言われても、どんな車にすべきかほとんどイメージが湧きませんが、「4人家族プラス祖父母の計6人がゆったり乗れる3列シートのワゴンでありながら、父親が週末に一人で高速道路を飛ばしてゴルフ場に向かうのに使っても違和感がない車」というキーコンセプトがあれば、デザイナーやエンジニアにかなり具体的なイメージが伝わります。グローバルな企業間競争が激化している今日、企業は競合優位性を維持するために以前にも増して明確なビジョン、事業戦略、製品コンセプトを打ち出さなければならなくなりつつあります。競争に打ち勝つためにどんどん目的指向になり、勝てる事業ドメインへの「選択と集中」に邁進し、製品コンセプトを尖らせることに目を奪われがちです。もしファイザーの経営陣が極めて合目的的思考の持ち主で、バイアグラの研究担当者に対して「この薬は心臓病治療薬としてのみ開発を進めなさい」と厳命していたら、性機能障害治療薬としてのバイアグラは日の目を見ていなかったかも知れません。こう考えてくると結局、セレンディピティとうまく付き合えている企業というのは、過度に合目的的にならず、偶然が作用する余地を適度に残した経営を行っているのではないかと考えられます。
21世紀に入り、技術の進歩は新しい局面を迎えつつあるように思えます。半導体産業においては、「18ヶ月毎に半導体の集積度が倍増する」と予言したムーアの法則に限界が見え始め、電子ビームの利用など従来とは全く異なる製造プロセスの開発が求められるようになっています。自動車産業においては、石油資源の有効利用や環境問題への配慮から、従来のガソリンエンジンに変わる燃料電池車や電気自動車の開発が進められています。燃料電池や蓄電池の技術革新においては既存の技術の改良だけでは限界があり、サイエンスに立ち戻って全く新しい高機能材料を発見していく必要があります。つまり、技術イノベーションと科学が今まで以上に密接に連関しあうべき時代を迎えていると言ってよいでしょう。こう見ると、バイオやナノテクなど一部の先端産業だけではなく、ITや自動車、機械など20世紀の繁栄を牽引してきた基幹産業も含めて、セレンディピティと上手につきあう“セレンディピティマネジメント”の必要性が高まっていることになります。ではいったいセレンディピティマネジメントの向上のために、具体的にどんな方策が考えられるのでしょうか?
企業の自主的取組みとして比較的容易に始められるのは、英語で言うスカンクワーク、日本で通称「ヤミ研」と呼ばれている社内非公認の研究開発活動の奨励でしょう。世界的には3Mの“ブートレッギング”(密造酒造り)が有名です。研究員が自分の時間の15%まで好きな研究テーマに使ってよい「15%ルール」が定められていて、クリエイティブな研究風土が醸成されています。世界的に大ヒットしたポストイットも、ブートレッギングの成果の一つと言われています。日本企業においてもヤミ研は多くのメーカーに見られる慣行(=生活の知恵)で、ヤミ研があったからこそ誕生したブレークスルー技術も数多くあります。
さらに、一企業の枠組みを超えたより大きな社会的方向性として、大学と企業が有機的にコラボレーションしながら研究開発を推進する、産学連携の取り組みが今まで以上に重要になってくると考えられます。企業が利益追求のための成果主義的行動を取りがちであるのに対して、大学は自然や社会を深く洞察し人間の叡智を高めていくことをミッションとしています。その意味でセレンディピティ(偶察力)は、企業よりも大学のあり方と相性がよいと考えられます。消費者や産業界のニーズをよく理解している企業側が、大学に対して“解くべき課題”を的確に提示する。一方大学側は、企業から提示された課題を抜本的に解決するアイデアを見出すために、セレンディピティを巧妙に活用しながら科学的発見に取り組んでいく。このような産学連携の歯車がうまく回り始めれば、製造技術、品質管理で急速に力をつけてきた中国やアジア諸国との価格競争に陥ることもなく、知財立国日本としての輝かしい未来が拓けてくることでしょう。
参考文献:
果報は寝て待て~セレンディピティのすすめ(言語学のお散歩)
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