Leadership Insights / 人材教育の新たな地平:「知る」から「気づく」へ

人材教育の新たな地平:「知る」から「気づく」へ

(2006年03月16日)

私たちインヴィニオのエデューサーは、生業(なりわい)として企業の方々の人材育成に日々取り組んでいます。いきおい、仕事を通じて「教育の本質とはいったい何なのか?」について自問自答することになります。教育という言葉を辞書で引いてみると、“他人に対して、意図的な働きかけを行うことによって、その人間を望ましい方向へ変化させること”とあります(大辞林)。なるほど確かに小中学校の教育であれば、まだ物事の善悪も十分判断できない子供たちに対して、何が正しく何が間違っているかを教えることが教育であると言えなくもないでしょう。しかし、高校生、さらに大学生ともなれば自我も目覚め、社会規範もわきまえ、自分なりの判断基準も備わってきます。こうなると教育の役割は、“望ましい方向に変化させること”から一歩退いて“本人が望ましいと考える方向に変化するための支援を提供すること”という位置づけに変わってくるように思われます。実際大学や専門学校においては、先端的な科学や工学、語学、法学、経済など様々な分野の講義を通じて、ひとりひとりが自分のありたい人生を実現するのに役立つ知識の習得を支援していると言えるでしょう。こう見てくると、素朴な疑問が浮かんできます。


「私自身を含めて、企業人を対象とした人材育成に従事している人間は、結局のところどのような教育サービスを提供していると言えるのだろうか?」


企業で働く方々というのは、言うまでもなく立派な大人です。大人に対する教育ということからすれば、明らかに“その人間を望ましい方向へ変化させる”という強制的なものではないはずです。となると企業における人材育成とは、根本的には大学教育と同質な“企業人として活躍するのに有益な知識習得の支援”という位置づけになるのでしょうか?実際多くの法人研修会社が提供している研修メニューを見ると、戦略立案、事業計画書作成、マーケティング、コーポレートブランディング、企業財務、組織マネジメント、人的資源管理など経営に役立つ諸知識(=いわゆるMBA的知識)のレクチャーが網羅されています。私が所属するインヴィニオでもこうした内容の講義を研修プログラムの一部としてご提供していますし、クライアント企業の人事部門からもこうした講義のご要望はコンスタントに頂いています。ただ、MBA的知識を習得することが経営者やリーダーとなるための必要十分条件であるならば話は簡単なのですが、読者のみなさんもお気づきの通り、経営理論を学ぶだけで経営の極意が体得できたり、変革のリーダーに変貌できたりすることは皆無に近いのが現実です。


知識を学ぶというのは「知る」という行為です。知るという言葉を辞書で引くと、“それについての知識を有する。わきまえる”と記されています(広辞林)。すなわち“知る”とは、ものごとに対して知識がない状態から、知識がある状態に変わることを示す言葉です。MBAを取得しても経営の極意が身につく訳では必ずしもないというのは、つまるところ“知っている”という状態と“出来る”という状態は本質的に異なることを意味します。例えば、次のような例を考えてみれば分かりやすいでしょう。ある部長がリーダーシップ研修を受講して、「部下のやる気を引き出すには、部下の意見に真剣に耳を傾け、よい提案が出てきたらどんどん自律的にやらせることが大切である」というマネジメント手法を学んだとします。研修終了後、部長は早速この手法を実践しようと部下とのコミュニケーションに臨みます。しかしふと気がつくと、「どうしてそんな下らないアイデアしか思いつかないんだ!」、「だからやっぱりお前には任せられないんだよ!」と怒鳴り散らす自分に呆然とします。研修を受けた直後には、「確かに講師の先生の言う通りだよなあ」、「これからは部下の意見にちゃんと耳を貸すようにしよう」と固く心に決めたはずなのに、いざやろうとするとどうにも感情が抑えられなくなり、気がついた時には爆発してしまっているという構図です。似たような経験は多かれ少なかれ読者の皆さんもお持ちではないかと思います。ではなぜ私たち人間は、“知っているのに実践出来ない”状態に陥ってしまうのでしょうか?この原因を探るには、意識と無意識の違いについて理解する必要があります。心理学では、脳の活動の内で自分自身が自覚できる活動を意識と呼び、明確に自覚できない活動を無意識(および潜在意識)と呼んでいます。実は脳の活動の大半は無意識的なもので、一説によれば90%以上が無意識であるとさえ言われています。“知る”とか“分かる”という認知が意識下で起こる脳内現象であるのに対して、“出来るようになる”という知的処理能力はかなりの部分を無意識的な思考に依存していると考えられます。そのため意識で分かっていても無意識がマスターしていなければ、いざというときに実践に結びつけられない憂き目に会うわけです。では一体どうすれば無意識的な思考を強化できるのでしょうか? ここに“気づき”の大切な役割が隠されていると私は考えています。


私たちは日常何気なく“気づく”という言葉を使っていますが、気づくとはそもそもどういう意味なのかを考察してみるとその深さに改めて驚かされます。気づくという言葉を辞書で引くと、“それまで気にとめていなかったところに注意が向いて、物事の存在や状態を知る。気がつく”とあります(大辞泉)。つまり、「それまでも何度となく見ていたはずの身近な事物に、あらためて今まで意識していなかった何かを発見すること」と言い換えられます。こうした人間特有の気づきを実感させるものとして、Boringのだまし絵が昔からよく知られています。


Scrap.gif


この絵は見方によって若い女性にも老婆にも見えるという巧妙な描き方がされていますが、初めて見た瞬間に見方が固定してしまうと(=例えば若い女性)、別の見方(=老婆)になかなか意識が回らなくなり、誰かに「ほら、こう見れば老婆に見えるでしょ」と指摘されて初めて、「ああ、なるほど確かにそうも見えるね」と気づかされることになります。これと似たような認知エラーとして、Change Blindness(変化に対する盲目)と呼ばれる現象もあります。部分的に異なる2枚の画像(写真)を交互に見せられたとき、異なっている箇所に注意がいくまでは何度見比べても両者の違いに気づかない現象です。サウスダコタ大学インターネット心理学研究所が提供しているデモサイトで簡単に体験できますので、読者の皆さんも是非一度お試しください。


http://www.usd.edu/psyc301/ChangeBlindness.htm


こうした認知エラーが起こる理由は、実は私たちの脳が「目の前の映像をありのままに認知しているのではなく、無意識の脳が映像を一旦解釈してから意識の脳に送り込んでいる」ためと考えられます。無意識の脳が意識の脳より先に介在するとなると、無意識の脳の偏った(あるいは誤った)解釈(これを “無意識の歪み”と呼ぶことにします)を直さない限り認知エラーを撲滅できないことになります。そしてまさに“気づき”こそが、無意識の歪みを矯正する絶好の契機になると考えられるのです。人間は、「知らなくて出来ない」ことにはさほどショックを受けないものです。例えば、日本史について学んだことが無い外国人が、大化の改新について答えることが出来ないのは当然です。しかしその一方で、「知っているのに出来ない」ことに人は大きなショックを受けます。先ほどの部長の例がまさにそれで、「研修で学んだはずなのになぜ実践出来ないのだろう」と自問自答を繰り返すことになります。そして自問自答の過程で意識から無意識への強い是正信号(=後悔・反省の念)が伝達され、無意識が二度と同じ過ちを繰り返さないよう矯正されていくのではないかと考えられます。かくして、実践力・実行力の高い人材を育成する上では、「知る」ことよりもむしろ「気づく」ことに軸足を置いた教育方法がより有効なのではないかという仮説に辿り着きます。


そこで次回は、私たちのような企業の人材育成に携わる企業が、「気づき」を促す上でどのような支援を提供できるかについて考えてみたいと思います。


高井 正美


■関連用語
コーチング



■関連コラム

トラックバック (0)

invenio menu iconこのエントリーのトラックバックURL:
https://leadershipinsight.jp/mt/mt-tb.cgi/526

アンケートのお願い


ご意見・ご感想をお聞かせください

今後の執筆の参考にさせて頂きますので、ご意見・ご感想をお聞かせください。
また、今後扱って欲しい題材なども受け付けておりますので、自由回答欄にご記入ください。

  • 大変参考になったので是非続きを読みたい
  • 参考になった
  • 普通
  • あまり面白くなかった
その他 自由回答欄(*差し支えなければお名前もご記入下さい。)